「今のほうが、全然いいやん。」
ひと月ぶりの更新になりますな。
この二か月ほど、年度末から4月までよく働き、
春風に誘われて花見に出かけ、
新しい課外活動も始め、
忙しくても、メイクはそれなりに念入りにしたりして。(笑)
で、身体がついていかなくっても、ドーピングで乗り切った。
(※高麗人参入りドリンクとかww)
‥って感じの怒涛のふた月だった。
仕事がひと段落して、ようやくGWだと思ったら、
ずっとここのところ、殺気立つか、逆ハイ(やや躁状態気味)だった気分も落ち着いてきたなかあ。
祝!GW!やっと休めるぞ!って解放感で、
珍しく、職場の同僚を誘って、
昨日は「ちょっと一杯」してきました。
同年代の彼女とは、けっこう共通点があって、
いろんな職種を経て、今の職場に流れ着いた40代同士であり、
また、単身赴任の旦那さんの代わりに父親役もしなくてはならない母として、
職場の人間関係となんかも、それなりに読めてしまったりもとか、
お互いに一言えば十わかる感じで、1時間ぐらいだったのだけど、
十分きもちを解放できたように思います。
じつは私、自分の10年前の写真を携帯待ち受けの一枚にしているんですが、
それは「気を抜くな。気を抜けば、オバサン街道まっしぐら。」という自戒を込めて、
また、34,5歳という年頃は、女の人生にとって、
身体的にも精神的なバランスの取れた年代だったと思っているので、
ある意味、自分史のなかの「ピーク」のひとつだたのかな、と思っていたこともあって、待ち受けにしてるんですね。
でもその一枚をみた彼女が、
「え!?今のほうが全然いいやん。」と
言ってくれたんですよ。
「え!?今のほうがイイ?」
と思わず、聞き返しました。
「そうやで。今のほうがシュっとしてて、かっこええやん。」
と彼女は言うのです。
(この言い方、大阪やろ~ 「シュっとして」て、まじ翻訳不可能やわ。)
なんかすごいサプライズで、嬉しかったのです。
「今のほうがいイイ」って
完全に「今、あるがまま」の肯定ですもん。
「45歳、女性」ってどうですか。
人生90年とすれば、確かにまだ半分の折り返しかもしれません。
でも、日本の一般的社会通念として考えられてきた
「40代、オバサン」説。
それに、私もじつはじわじわと毒されていたのではないかしら。
いうなれば、それは女性を縛る、忌まわしい「呪い」のようなものです。
「女・40代」で何が悪い!
「女・40代」でなんか、遠慮しないといけないことがあるか?
何を言われてもいつもニコニコして、
上の人にも、下の人にも気持ちよく働いてもらえるように、気を遣って、
人が嫌がる仕事も、できる限り引き受けてさあーー
女終わらないように、がんばって小ぎれいにもして、
家帰ったら子どもの宿題とか時間割とか連絡帳とか見てさあーー
旦那には大して大事にもされず、苦にもされず、
空気のように扱われてさあーーー。
「それなのに、
なんでみんな、
がんばっている私をぞんざいに扱おうとするんだよ!!」
ていう怒りの感情が出てきそうなんですが、
でも、実はぞんざいに扱おうとしていたのは、
わたし自身。
彼女のひとことで、それがわかった。
やっぱり「40代だし‥」という遠慮や、
ものわかりよく、余裕を持ってふるまおうとしている裏側の自信のなさ、
それに、「もう女のステージは降りてますから」的な態度とか。
そのこと自体が、自分を貶めているし、
自分を卑屈にしてしまうし、
何より自分を愛していないんでは?
だけど「女・40代」、ほんとうは充実した、
実のある時季ではないでしょうか。
まだ体力も何とかなるし、知力・経験値も蓄積されているし、
種を蒔いて、育てた果実を刈り取る季節。
え、そんなの男の世界では当然だって?
そうかもね。
やっぱり、「女の値打ちは若さ」っていう
昭和な価値観を、頭では否定していても、
感覚的にひきずっているのかもしれない。
刷り込み、というのはやはりある種の「呪い」だ。
だけど、そんなもんは、気が付きさえすれば、解くことができる。
そのことに気が付いたなら、
人に大事にされたい、と思うなら、
まずは自分が自分を大事にしてあげないとねえ。
「ご自愛」、ってやつですね。
そうしたら、人のことも大事にできるし、
人からも大事にされるんじゃないかしらねえ。
45歳が折り返し地点だとしたら、
そこは坂道の途中で、自分次第でどんな道も選ぶことができる。
坂道を転げ落ちるのではなく、
自分にあった道を選んで、
慌てなくてもいいから、ちょっとずつでも登っていって、
より高いステージとか、眺めのいい丘とか、きれいなお花畑でもいいし、
もっといいところにいくようにしたらいい。
こんな私を支えてくれる、家族・ともだち・職場の同僚・新しい仲間や
毎朝通るときに挨拶するお宮さんに、神様仏さまに、天にある存在に、
すべてに感謝します。
ありがとう。
これからも適当に思うがままにやっていくよ。
別に頑張らんでも、「なるようになる」から。
昨今の自撮りスマホ「美人エフェクト」、よくできているけどね。でもがんばってるやん!
ひとり、旅に出たくなる瞬間
一週間の海外出張は、日常の仕事の続きでありながら、
生活スタイルそのものは、別世界でもある。
朝食ブッフェに始まり、打ち合わせの中華円卓、はたまた交通渋滞まで。
しかし、長いようで、結局いつものメンバーと、
いつもとちょっと違う偉い方々と一緒に、
あちらを訪問したり、こちらで裏方仕事をしたりしているうちに、一週間が過ぎた。
観光する時間は全くなかったし、
たまに一人で朝食を摂る以外はすべて円卓だったから、
ひとりきりになる時間は、実はほとんどなかった。
仕事を終えた帰りの空港。
そこでも、お土産買う時間以外は、ランチも上司と偉い方と一緒だった。
搭乗して、ようやくバラバラに。
偉い方はビジネスに。われわれは三々五々エコノミーに。
広州ー関空便は混みあっていた。
並び席がとれなかった外国人の家族連れに交換を頼まれたとかで、
親切なひとりの日本人が、その結果、私の横に座ることになり、
英語で「ここに置いてあるチケットはあなたのですか?」と私に聞いた。
やっぱ、中国人に見えたか、と思いつつ、
「いや、これ、もともと落ちてたんですけど。」と答えると
その人はちょっとバツが悪そうだったが、
なんとなく、「広州はお仕事でしたか」みたいな話になった。
その便は、満席だったけれど、
中国人の家族連れとか、騒がしい人は全くいなくて、
この機内は驚くほど静かだと、
三週間も広州に滞在したという人はいった。
私は、5日間だけの滞在で、常に日本人同士で仕事場にいたので、
静かなのは当たり前で、機内が静かなことに気が付かなかった。
中国にいながら、実は中国の空気にほとんど触れていなかったのだと、
その時、気づいた。
私は仕事の一週間の間、あちこちに気働きもしたし、
いろんな人に喋ることも多くて、言いたいことも言い過ぎたような気もするし、
この期に及んで、機内で隣になった知らない人相手に、
これ以上ペラペラ喋ってたら、ただの「躁状態のシャベリの人」になりそうな気もしたので、
なるべく黙っていようと試みた。
だけど、意外にも、ポツリポツリと話が続いた。
隣に座った人は、
3週間も広州で研修を受けていたこと。
泊まったホテルはよく聞けば、隣だったこと。
陸路で香港とマカオに遊びにいったこと。
研修で気のいいインド人がいたけれど、何言ってるか聞きとれなかったこと、等々。
私も、知らないうちに話をしていた。
(しないといいながら、基本おしゃべりだから。)
仕事は、政府の関係だったこと。
広東の人はフレンドリーでご飯がおいしかったこと。
広州は、じめっとしていて、うすら寒かったこと。
香港・マカオは正月明けに行ったこと。
子どもがトムとジェリーやひつじのショーンを見てばかりなこと、etcetc。
東南アジアに時々行くこと、住んでいた時の昔話。
一人で動くと、ご飯のとき、暇なとき、
地元の人やら旅人と、知り合う機会が多い。
なんとなく、
隣に座った人と、問わず語りが始まることがある。
一人旅、ああ、一人旅行きたいなあ、と思った。
それからまた、その人の子どもも、ひつじのショーンを見るのだとか、
アメリカ資本の勤め先は、ホテルのバカ高いクリーニングに毎日出させてくれるんだけど、その分、手当てをくれたらいいのに、とか他愛のないことを話しながら、機内食を食べた。
一週間も家を空けて遠くに来ていたけれど、
ご飯だけが中華料理で、日常は会社の延長だった。
その時やっと、個人が誰かと、旅の途中で知り合う感覚がよみがえった。
ああ、こういうのが一人旅だったっけなあ。
・・・一人旅、いいですねえ、一人旅。
スペインとかポルトガルとか、南欧なんかに行ってみたいなあ。
と呟いていた。
それからまた、私は十年前ぐらいの、一人旅の話をした。
それから隣の人は、
アメリカで航空機整備士資格を取るために、
一人、現地で暮らしながら、毎日誰とも喋らない生活をしていた。
ほとんど誰とも口を利かないまま、必死で資格だけ取って帰ってきた、
という話をした。
え、それは信じられない。
それはおしゃべりな私にはできそうにない。
ダイナーのおばちゃんでも誰でも捕まえて、
しゃべってもらわないとダメになりそう。とか。
それでも、一人旅いいですねえ、一人旅。
いったいいつになったら、また行けるのやら。
と、また言った。
知らない場所で、知らない人が、何をして、何を考えたのか。
そんな話を、旅の途中以外で、
初めて会ったばかりの誰かに、
簡単に聞く機会があるだろうか。
旅ではない、仕事の出張の終りの一瞬に、
一人旅に出たい気分だけを残して、
航空機は無事、関空に着陸した。
ありがとうございました。
また関空のラーメン屋かどこかで、
お目にかかることがありましたら、
旅のはなしでもいたしましょう。
松尾大社で 全快御礼! 心身リセット
私のルーツ(4) 二十にしてアジアにはまる
学生時代、ヨーロッパからの帰りに立ち寄り、
5日間の予定だった滞在を2週間にまで延ばしてしまうほど、
ティオマン島に一度ですっかり魅せられたのが
私とマレーシアとの出遭いでした。
ドイツのフライブルク大学の夏期講習からの帰りに立ち寄った、
シンガポールでのトランジット。
シンガポールから一日で行ける距離に、
南国の楽園があるらしい・・・
それがティオマン島でした。
シンガポールから双胴船(カタマラン)で到着したときの、
あの信じられない海の青さ、透明度、ヤシの木の茂る夢のような光景。
ちょっとスノーケルで潜れば熱帯魚の群れが舞い、
簡素なビーチハット(小屋)は本当のビーチフロントで、
寝ていると、まさに「枕の下に」波の音が聞こえたものです。
朝起きて、バナナパンケーキと練乳入りの甘いコーヒーを飲み、
何もすることもなくぶらぶらしていると、
すぐに宿のお兄ちゃん、隣のレストランのスタッフ、
ダイビングショップのスタッフらと話が始まります。
どっから来たんだ、いつまでいるんだ、何して遊ぶ?
ダイビングは?彼氏はいるの?マレーシアは好きか?
ティオマン島はいいところだろう?etc、etc。
島の道は海岸沿いの一本道のみで、
当時は宿も数えるほどしかありませんでした。
そのへんを歩いていれば、1日で誰がどこに泊まっているのか、
すぐに顔が知られてしまうような環境で、
こちらも誰がどこの人かわかってくると、
なんとも居心地がいいのでした。
泳ぐのに疲れたら、砂浜の木の間に吊るしてあるハンモックで昼寝。
夕方になったら、スタッフも観光客も入り混じって、バレーボールして、
その後、知り合っ た他の客とご飯を食べて、
そのうち仕事が終わったスタッフの連中も
一緒にビールをあけている・・・
なんていうお気楽な島でした。
そのうち、宿のお兄ちゃんやその家族と仲良くなって、
彼ら家族の家の中まで遊びにいくようになりました。
マレー人の大家族で、オーナー夫妻と子どもたち、
5人兄弟姉妹+その他親族が一緒に宿とレストランをやっていて、
兄弟姉妹は学生だった私とちょうど同じ年頃。
仲良くなった姉妹にマレーの習慣について、
「女の子がトイレで紙を使わないって、どうやるの?」とか聞くと、
「水でぴっぴ、とふくのよ!」なんて教えてもらって驚いたり、
島には高等学校はないか ら、
東海岸のMersingに下宿して学校に通うんだ、
というような話を聞いたことも新鮮でした。
マレー人の家の中に入れてもらう、
というのは本当に異文化体験そのものでした。
「長男の嫁さんは、中国系なのよ」なんて話を聞いて、
へ え、マレーシア人でも民族が違うんだ?と
当時は何の予備知識もなかったので、不思議に思っていました。
2週間の滞在の間に、ダイビングライセンスを取り、
エメラルドの海を堪能し、
(なんといっても、講習の時から目の前のビーチで熱帯魚三昧
という贅沢なスクールでした!)
そして初めて滞在した島で、
「まるで家族」みたいな体験をさせてもらい、
夢のような日々を過ごしました。
そして2週間後、別れを惜しみながら、
大学が始まってしまっていた日本へと帰りました。
次のハリラヤにはまた帰ってくるよ、と思いながら。
私のルーツ(3)海外にあこがれて ヒネた青春物語
はじめての外国へのあこがれは
(アマンのプライベートリゾートになってるってか?・・・うん、そのうち行ってみよう。)
http://wadaphoto.jp/ よりお借りしました。お見事。ローテンブルクの町並み。
私のルーツ(2) 十にして寺社に目覚める
小3で関東から大阪へ帰ってきて、
「ミキちゃん、かわいいじゃん♡」
「そうだよね!」の世界から一転、
「アホかいな」とか
「ババ踏みよった」とか言いながら
まあ適当にオモロイ毎日を送っていたわけです。
そんなある日、
わたくしは京都に出逢います。
わたくしは魂を打たれました・・・
金閣寺。なんてシブくて、美しいのだろう。
当時の金閣は、昭和の金箔張替前の、
うっすらと汚れた佇まいでした。
現在ある金ピカの金閣は、
1987年(昭和62年)に総額7億4千万円をかけて、
昭和の大修理、金箔の全面張り替えをした後の姿です。
1950年に放火により全焼し、5年後に再建された後、
私の見た1981年当時には、
すでに二層の屋根の下あたりは黒ずみ、
金色の壁面もその輝きを失いかけていたのです。
金閣の前面に広がる鏡湖池、
そこにも、今あるきらびやかで鮮やかな姿ではなく、
ぼんやりとすすけた姿を映していたのです。
だけどその、往年の輝きを失いかけた、
薄汚れてはかなげな、くすんだ鈍い金色の金閣こそが
私にとっては、
深遠な「わびさび」の世界への誘いだったのでありましょう。
そこからわたしの、今にいたる趣味の世界が始まりました。
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「出逢い:金閣とわたし」二層の金箔の黒ずみが、ちょうどよく見える一枚です
それで中学は迷わず京都の学校だけを受験しました。
それから10年余り、
大好きな神社仏閣がちりばめられた、
宝箱のような京都の街に、
大阪の北のほうの町から通うことになったのです。
「ミキちゃんの趣味って何??」
「えっ、寺参りやけど。」
大学時代にも、数は少ないながら、
寺参りフレンドは、いるといえばいました。
しかし時代はバブルの絶頂期。
華やかな女子高生・女子大生がもてはやされていたこの時代に、
<趣味:寺参り> な女が、一般男子にウケることは、あり得なかったのです。
となると、 狙え、ニッチ層!!!
そして、ここにきて
わたしの男の趣味なんかも、
小学校低学年からの
「オンリーワン戦略」を踏襲していくのであります。
そういえば、大学当時つきあっていた、
ちょっと破天荒でワルぶった、超ロマンチストの哲学系男子など、
今は五山の僧籍に入っていると、風の便りに聞いたのよね。
めっちゃ ニッチ層いけてるやん。
当時のあたし。
五山の二位、相国寺の塔頭ですね。
ぼんさんになった件のお方も、
ひょっとするとそのうち、
どこぞの管長さんなんかになってはるやもしれませんなあ。
楽しみにしておきまひょ。
すんません。「永平寺別院長谷寺」さんより勝手に拝借♡ え、宗派違う?まあええやんか。
私のルーツ(1) 七つにして、おもろいを知る
ブログなるもの、を始めるのにあたって
ちょっとばかりは、「自分の原点」を振り返って、自己紹介に代えてみよう。
私は「♪大阪で生まれた~ 女や~けど~」、二歳で東京へ。
小学2年まで東京・千葉で過ごす。
だから、最初に他人としゃべった言葉は標準語。
そんなわけで今でも、相手によって標準語と関西弁とアクセントを変えて話せる。
三年生で大阪へ帰ってきた。
転校してきて、真っ先に男子に言われたひとこと、
「おまえ、『ババ』って何か知らんやろ?」
ああ、ただいま、大阪!って感じよね。
勉強できるガリベンよりも
カッコいい奴よりも、
おもろいヤツが王様、
オモロければすべて許される。
そんななかで、三年生から過ごして
私のルーツというか、ベースの考え方が形成されていった。
「人と違うことが大事」
「おもろいのが一番」
『あんた変!』 と言われるのがほめ言葉!
ってな感覚が培われたのだと思う。
せやで、人生、人とちゃうことやってナンボでしょう。
「世界で一つだけの花」、名曲ですね。
でも、大阪の小学校でもまれてきたら、
この歌の歌詞のいうところは、
イズミヤの店内BGMで歌うところの「ええもん高いの」※と同じくらい、「当たり前」のことですわ。
※小3で帰ってきてから、近所のスーパーといえば「イズミヤ」で、
ここで流れていたテーマソングも私のベースを作っている。
いわく、「♪ ええもんたっかいのはアタリマエ、ええもんやっすいのがイズミヤー」
おあとがよろしいようで。
検索してみたけど、最近のBGMしかなかったわ。これはこれで、なかなかの名曲かも。
www.youtube.com